命日の夜

 夏の夜。
 暑苦しさに千佳は寝付けないでいた。
 今日はお父さんもお母さんも帰ってこない。
 あまり広くない家なのに、今日は妙に広く感じる。
 早く寝てしまおう。固く目を瞑り、縮こまるようにして寝ようとする。
 ……
 (だめだ、寝れないや……)
 寝たいのに、頭は一向に冴えたままだ。
 ガタンっ
 誰もいないはずの家の中で突如大きな音がする。
 ビクっとした千佳は声も出ず、動けない。
(……な、なに、いまの…………)
 じっとりと背中が汗ばむ気がしたのに、なぜか寒気がする。
 音は聞こえてこない。
「気のせい……だよね」
 自分に言い聞かせるように声に出す。しかし。
 ひたひたと何かが近づいてくる音が聞こえてきた。
 今度こそ、千佳は完全に動けなかった。

 ひた……ひた…………
 音は止まない。
 確実に千佳に迫っていた。
 そして、怖くて鋭敏になった千佳の聴覚にはさらに嫌な音が混ざる。
 ぴちゃ……ぴちゃ……ぴちゃぴちゃ……
 雫が落ちるような音。いや、何か液体のようなものを咀嚼するようにも聞こえる。
(いや……いや、こないで……)
 千佳の思惑とは裏腹に音はもうすぐそこでしていた。
 こんなときに限って部屋のドアは開けっ放しだった。
(わぁぁっ……ばかばかっ自分のばかっ……)
 少しでも涼しくしようとドアを開けてしまっていた自分に悪態をつくが、この現状の打破になんら繋がるわけではない。
 そして、音の気配は部屋の前で止まる。まるで、最初からそこを目指していたかのように。
(お願い……あっちへ行って…………お願いっ)
 願いむなしく音は部屋へと入ってくる。
 千佳のベッドの前で止まる。音はすぐ足元でしていた。
(い……や……)
 声すら出ない。呼吸すらも止めていた。
 …………
 なぜか、音の気配はそのままそこに佇んでいた。
 ハァ……ハァ……ハァ……
 荒い獣のような声だけが部屋にこだまする。
 動かない千佳、動かない音。
 数瞬の時だったはずだが、千佳には永遠のように感じる。
 動いたらやばいような気がする。直感的に千佳は悟っていた。
 でも。
(……何がいるんだろう?)
 好奇心旺盛な12歳の女の子はその興味に勝てなかった。
 顔をそーっと上げ、掛け布団越しに覗こうとした。
 ガバっ
 瞬間、音の主、黒い影が顔に向かって飛び掛ってきた。
「いやぁぁぁぁぁ! やめてっ! 殺さないでっ!」
 千佳は声のあらん限り泣き叫ぶ。
 黒い影は顔に纏わり付いたまま、べろべろと千佳の顔を舐めあげる。
「いや、やめて、やめてったら、変態ーーーーー!」
「うぉんっ」
 黒い影が吠える。
 ……吠える?
「……えーと、ジョン?」
「うぉんっ、わぅぅ」
 黒い影が甘えるように鳴く。というか黒い影じゃなくて家で飼っている犬のジョンだ。
「もぅっ、脅かさないでよ、ジョンったら!」
 千佳はべりっとジョンを顔から引き剥がすとぺしっとその頭をはたいた。
「……くぅぅぅん」
 怒られたジョンは頭をうなだらせてしまう。
「まったく……どっから入ったのよ。大体鎖だってつけてたのに……」
 そこで、気づいてしまった。
 恐怖は気づかなければ恐怖ではないのに。
 もう遅かった。
 そう、音は止んでいなかった。

 ぴちゃ、ぴちゃ……ぴちゃぴちゃ…………
 雫が垂れるような音。足音こそしないが、その音は少しずつこちらへ近づいている。
 だが、千佳はこんどは震えているばかりではなかった。
 奇妙なことにジョンもまた震えていた。
 いたずら好きなジョンがこんなにじっとしていたことなんて見たことがない。
「私が……がんばらなきゃ」
 ジョンを守る。そう思った千佳の行動は早かった。
 ドアに近づき、さっと閉める。もちろん、鍵も閉めた。
 これで、このドアはそう簡単には開かない。
 ゆっくりと近づく音。
 千佳は覚悟を決めた。
 ぴちゃ、ぴちゃ……ぴちゃぴちゃ…………
 音はついにドアの反対側に来ていた。
 ジョンの時と同じように音はそこで止まる。
 いや、水でも被ってるのだろうか?水が滴るような音がそこでし続けていた。
「チカチャン……アケテ……アイニキタノ……」
 しわがれた無表情な声がドアの向こう側から発せられる。
 千佳はびくっとしつつもその声に聞き覚えがあることを思い出す。
「おばあ……ちゃん?」
「ソウ……オネガイ……ココヲアケテ……チカチャンヲオムカエニキタノ……」
 おばあちゃんはちょうど一年前の今日亡くなった。
 火葬後の遺骨だって拾った。いるわけがない。
 でも。
(この声は間違いなくおばあちゃんだ……)
 千佳はおばあちゃんっ子だった。おばあちゃんもまたそんな千佳をよく可愛がっていた。
 死ぬ間際にすら、まず千佳を呼んだほどだ。
「……おばあちゃん」
 ぽつりと呟く千佳。つぶやいた瞬間、愛惜の念が込み上げる。
 おばあちゃんに会いたい。
「おばあちゃん、いま……」
 鍵を開けるねと鍵に手をかけようとした。
 しかし、完全に縮こまってしまったジョンが目に入り、嫌な予感が背筋をかけた。
(このまま、開けたら……まずいよう気がする)
 千佳は言いかけた言葉を飲み込み黙り込んでしまう。
「ドウシタノ、チカチャン……ハヤクアケテチョウダイ……」
 相変わらず、無表情な声。おばあちゃんはもっと優しい感情にあふれる声を出していたはずだ。
「……だめ。おばあちゃん、開けられない……」
「…………ドウシテ?」
 無表情だった声にわずかに怒気が混ざる。
 おばあちゃんはこんな言い方絶対しない。
「違う! 違うの! あなたはおばあちゃんじゃない! だって、おばあちゃんはもう死んだもん!」
「ソウ…………シカタナイコネ……」
 ドアの向こうの声は途端黙り込む。
「……ごめん、おばあちゃん、ごめん…………」
 千佳は搾り出すように謝罪の言葉を述べる。
「イイノヨ、チカチャン……」
 千佳の真摯な謝罪の言葉が通じたのか、ドアの向こうの声は優しくなる。
 その声にほっとする千佳。
 だが、次の言葉に千佳は凍りつく。
「ドノミチツレテイクダケダカラ」
 笑いすら含んだ不気味な声で静かに声は告げる。
「お、おばあちゃん?」
 その声に千佳はビクっと体を後ろに引くとドアから離れる。
 直後、ドアの表面が湖面のようになびくと何かが浮かび上がるように現れた。
 月明かりに露になったのは水を含み膨れ上がった青白い両手。
 その腕はにょろにょろと蛇がのたうつように曲がりくねる。
 やばい。これは絶対にやばい。
 急いで千佳はその場から離れる。
 脳が、体が、全ての感覚が警鈴を打ち鳴らす。
 急いでこの場を離れなければ命がない!
 千佳の直感がそう告げる。
 千佳は即座にジョンを抱きかかえ部屋の端に移動する。
 部屋の端に居れば腕は届かない。そう思ったからだ。
 だが、それがいけなかった。
「キコエタ……ソッチニイルノネ、チカチャン」
 声は嘲笑うように言うと、曲がりくねる二本の腕はすーっとさらに伸びる。
 蛇がエモノに飛び掛るように真っ直ぐに向かってくる。
「そ、そんな……い、いや……おとうさんっ、おかあさんっ、助けてぇぇぇぇ!」
 千佳の声は空しく部屋に響くだけだった。どうあがいても今日は両親は帰ってこないのだから。
 青白い手はもうすぐそこまで迫っていた。
「いやあぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!」
 千佳は泣き叫び、両手で守るように体を抱く。
 その瞬間、千佳の叫びに呼応するかのようにジョンが前に出る。
「うぉんっ!」
 まるで、主を守るかのように。
「ジョン!? だめ、そっちへいっちゃ……」
 千佳の制止の声も空しく。
 ジョンは青白い手に掴まれる。
 ジョンはもがいたりしなかった。自分のなすべきこと、それを分かっていた。
 ジョンはこちらを向いて小さく鳴く。
「わぅ」
 千佳にはそれが別れの挨拶のように聞こえた。
「ジョンーーー! だめーーー!」
 千佳は無我夢中になってジョンを掴まえた手に掴みかかる。
「うぉんっ! うぅぅぅ!」
 だが、ジョンが千佳に噛み付こうとするので、それは出来なかった。
 それは千佳を近づかせないようにするかのようだった。
「どうして、ジョン……」
 ジョンはもう吠えない。こちらも向かない。ただ、静かに。
 その手に抱かれ、ドアの方へと向かっていった。
 ドアは手が生えた時と同じように湖面のように揺れると手とジョンを吸い込んだ。
 千佳は声が出なかった。
 そして。
「チカチャン、ヤットキテクレタワネェ……アラ、コンナニケヲハヤシチャダメデショ?」
 べり、べりっ
 何かを引き剥がすような音とぼたっぼたっと大量の液体が落ちるような音がドアの向こうから聞こえていた。
 千佳はもう動けなかった。

後日談

 次の日の夜、両親が帰りつくと家の中には水浸しになった痕があった。
 千佳を叱ろうと、部屋に行こうとした父は愕然とする。
 千佳の部屋の前のむしられたような毛と血痕に。
 そして、壁を背に座った千佳は目を見開いたまま、ドアの方を凝視していた。
 走りよった父親が千佳に何があったのかと問いただすと、千佳は一言「おばあちゃん……」というだけだった。

 その後、千佳は救急車で運ばれ病院へと搬送された。
 脱水症状と食事を取ってないための衰弱が見られたが、命に別状はなかった。

 数日後、千佳は退院した。
 しかし、千佳にいくら聞いても、何も思い出せないというばかりでその日何があったのか父も母も聞くことはできなかった。

 千佳の退院の日、墓を任せている寺の住職から千佳の父宛に電話があった。
 それは、祖母の墓が荒らされたという話だった。
 ただ、不思議なことに墓はまるで内側から掘られたかのようで、次の日にはその穴は埋まっていたということであった。

 そして、墓の傍には犬の毛らしきものが落ちていたということだ。

コメント

さてさて、冷えましたかぁ( ̄▽ ̄
夢に見るとさらに数倍冷えますよぉ。
冷えたい方は寝る前に読むと良いかと(にやそ

執筆時間、実に4時間。構想時間ほとんどなしw

さて、実はこの話、まったくのフィクションではありません。
私は昔、実家でプレーリードッグなるリス(メス)を飼っていました。
なぜか、リンダという名前で(成獣だったので既に名前がついてた)、リンちゃん
って呼ぶと「きゃっほぅ」って立ち上がって鳴く不思議な動物でした。(ほんとに)
ちなみに、私の名前でも返事しやがるんですね、これが。
くそぅ、貴様は私と同列のつもりかっ
…て、まぁ、リスと戦ってもしょうがないですが。
あ、そういえばトイレのドアを閉める音でも鳴いてましたね。(結局何でもいいのか)

愛くるしいリンちゃん。
家族のアイドルでした。

でも。
祖父が亡くなってから、ちょうど一年後の日。
天に召されてしまいました。
かわいそうなリンちゃん。
埋める時、母が一言。
「…今日、おじいちゃんの命日ね。きっと、リンちゃんが見代わりになってくれたのね」
うちで飼う動物はよく命日に死ぬのだそうです。
母曰く。
「死んだ人が寂しがってお迎えにくる」
のだそうです。で、ペット飼ってるとそれが見代わりになっちゃうらしい。
あぁ、そうなのか、リンちゃんっ
お前は私達の命の恩人なのか。ありがとう、リンちゃん。

というわけで、迎えにきたおばあちゃんが犬のジョンをさらっていってしまうわけであります、はい。

あ、ちなみに、数日したら野良猫がリンちゃんを埋めた辺りを掘ってました。

えーと( ̄▽ ̄;やっぱり食べられちゃった?
あぁ、最後までかわいそうなリンちゃん…。

怖がりな人へ一言

物語は古来より霊鎮めの力があるといわれてます。つまり、お化けとかを描くことによってその魂を
満足させることで現実に出てこないようにするということです。なので、これを読んだからって怖が
る必要ないですよん。むしろ、逆です。これを読んだことで事前に怖いことをふせいだわけです、はい。