涼「ぐえっ!?」
道場の床一面に敷かれてある畳に叩きつけられる。
背中全身に痛みが走る。
が、この痛みはもはや数える事も忘れてしまった程受けている。
すぐに起き上がり、臨戦態勢の姿勢をとる。
涼の視線の先には、義理の祖父である信蔵である。
何度この人に投げられ、叩きつけられたのだろう。
信「ほっほっほっ、休憩するかの?」
こちらは呼吸を整えようと息が荒いのに信蔵は余裕の表情をしている。
涼「いいや、まだまだっ!」
時間はタイムリミット寸前なのだ。
少しでも『あいつ』の壁にならなければ。
傍から見ていると20代前半の青年と70代の老人が稽古をしているように見える。
しかし、実際は40歳を越えた、いわゆる中年男性と100歳を越える長寿の老人である。
一年後。
涼「んー………」
鏡を見て髭の剃り残しがないか確認する。
綾「涼さん、また見ているんですか?」
綾の言う通り、これで5回目の確認になる。
落ち着かない。
その理由はあと数分後に訪れるあの二人が家に来るからだ。
準備は整った。
あとは正直どんな結末になるのかはわからない。
ただ、自分は結末よりも、『過程』をしっかりと見届けたい。
とにかく、待つか。
居間でソファに座り、時間が来るのを待った。
やがて、チャイムが鳴った。
『あいつ』の言葉を聞いた後、立ち上がる。
涼「ちょっと、付いてきてくれ。春香も」
玄関に向かい、靴を履いて外へ出る。
向かう場所は向かいの綾の実家。
綾の実家を眺めると、昔の出来事を色々と思い出す。
……おじいさんも今の俺と同じ気持ちだったのだろうか。
認めてはいるけれど、確かめたい。
それだけの為に、自分は悪になろう。
チャイムを鳴らし、おじいさんと母さんの返事を待たずに家に入る。
玄関を開けると、ちょうど母さんが来る。
綾母「あら、涼君。いらっしゃい」
涼「こんにちは。庭借りますね」
綾母「おじいちゃんも呼んだ方がいいかしら?」
涼「ええ、総決算みたいなもんですから」
庭で屈伸等の準備運動をしていく。
綾や春香、母さんやおじいさんは縁側に座ってもらった。
一方、対峙している光一君は状況が飲み込めず、ポカンとしている。
身体の準備は整った。
あとは、やるだけ。
涼「うっし、条件は一つだけだ。喧嘩で俺に勝ってみろ」
光「はあ!?」
光一君にとってこの発言は予想していなかったであろう。
涼「別に一本勝負ってわけじゃない。そっちが倒れても何度でも挑んでいいぞ」
光「…い…いいんですか?高校の時はそれなりの実力持ってましたよ?」
そんな事はとっくに知っている。
だからこそこの日の為にずっと特訓をしてきたのだ。
涼「とっとと来い、小僧」
光「…わかりました」
身体を横向きにし、右足を後ろにずらす。
右腕をこちらの腹の辺りに合わせ、左腕は肘を曲げて縦にして前に出す。
『カニ型』という構えだった。
実際に格闘家が使っている程の有名な構え。
正面を向いていないため人体の弱点である正中線を隠されており、攻め辛い。
さすがに実力者なだけある。
不思議な事に光一君の構えを見て冷静になっている自分がいる。
自分はシンプルに両腕を上げて猫の構えを取る。
光「いきますよ」
光一君は余裕の顔をしている。
おそらく、ゲームで言う所の必ず勝つイベントみたいな感覚で見ているのだろう。
光一君が足を踏み出すと同時に左のジャブを放ってきた。
…うん、見える。
横から手首をつかむ。
涼「よっ」
その後は一瞬の出来事だった。
光一君の身体がぐるんっと逆さまになり、地面に倒れる。
春「えっ?」
春香が思わず声を上げた。
光「……え?」
仰向けに倒れた光一君も今の状況が飲み込めず、思わず声が出た。
…よし。
修行の成果が出た。
信「ほっほっほっ、うまくいったの」
おじいさんはこの光景に笑う。
涼「おじいさんのおかげですよ」
この為におじいさんとの合気の修行をしてきたのだ。
修行は二か月前に終わったが、不安要素を消すために実戦として空手道場に行って有段者との組手も行った。
2sボコボコにされる覚悟で行ったのだが自分でも驚く程打ちのめした。
それだけおじいさんの修行の効果があった事だ。
涼「どうした、これで終わりか?」
こちらの準備は完全に整った。
あとは光一君次第だ。
光「くっ、まだまだ!」
光一君はすぐに起き上がり、ファイティングポーズをとる。
何度光一君をダウンさせたのか数えるのも面倒になってきた。
『現役』対『元』では勝ち目は無いに等しい。
昔取った杵柄であっても現実というのは無慈悲だ。
ふと、頭に何か当たった。
空を見上げると、何かが落ちてきた。
雨だ。
春「お父さん、もうやめて!」
見るに堪えなくなった春香がこちらに入ろうとするが、綾がそれを制する。
綾「待ちなさい」
春「お母さん…どうして!?」
色々な意味で今日は限界かもしれない。
涼「雨天延期にでもするか?」
光「まだだ!」
…もうちょい付き合ってやるか。
雨足が強くなってきた。
光一君は泥に近い状態になった土の上に倒れる。
………やれやれ。
涼「おい、立て」
光一君の顔をつかみ、引き寄せる。
涼「そんな弱っちい気持ちで春香を嫁にしようとしてんのか!?」
光「な…に…」
涼「これからもっとしんどい事が何度も起きんだぞ!父親ぐらい簡単にぶっ倒してみやがれ!」
光「う…る……せえ…」
光一君がこちらの腕をつかんできた。
それを支えにして一気に立ち上がってきた。
光「はる…かは……俺が……まも……」
光一君の拳が自分の胸に当たった。
そして、その拳はそのままずるずると下へと落ち、光一君の身体はそのまま地面に倒れた。
最後のパンチはパンチと呼べないぐらいの弱々しいものだった。
だが、その奥にあるものを深く抉っていた。
最後の最後に、キツいものを喰らった。
涼「ふう……」
今日はこれで終わりか。
涼「母さん、悪いけどこう……」
母さんの方を向いた瞬間、顔に衝撃が入った。
春香の平手打ち。
春香はぼろぼろと涙を零している。
春「どうして!?」
怒りとも悲しみともいえる声。
涼「…さあな」
…父親の我儘を理解してくれる必要は無い。
春「大嫌い!」
春香の言葉を背にして自宅へと足を運んだ。
シャワーを浴び終えて居間に入ると綾がお茶を淹れていた。
綾「涼さん、お疲れ様です」
そう言ってお茶の入った湯呑を自分の前に置いてくれた。
涼「ん、ありがとう」
お茶を一口飲んでその後の事を聞いた。
あの後綾は春香に俺の真意を伝えてくれていた。
ただし、光一君にはその真意を伝えないようにと釘を刺している。
涼「そっか……」
とりあえず、自分の役目は終わったようだ。
お茶を飲み干し、春香の言葉を思い出す。
涼「あー、父親って嫌な職業だな…」
この時だけは悪者にならざるを得ない。
涼「こうやって、自分の愛娘が奪われるのか…」
鼻をすすった。
綾「ふふ、泣いてはいけませんよ」
もうお茶は空っぽになってる湯呑を煽った。
涼「…泣いてないよ、ちょっとだけ目玉が汗かいただけだよ」
2日後。
再び綾の実家の庭にいた。
いるのは自分だけではなく光一君と春香もいる。
リターンマッチだ。
涼「やれやれ、またやんのかよ」
光「まだこっちは『参った』なんて言ってませんからね」
まあ挑む元気があるのはいい事か。
春「光一君!頑張ってね!」
一方、春香は嬉しそうに光一君を応援している。
一昨日とはえらい違いだ。
……もしかして綾がバラしたのか。
まあそうするしかねえか。
……手を抜こうと思ったが、春香の笑顔を見て何か無性に腹が立った。
あの人はちょっとむっとしている。
多分、手を抜こうとしたけど春香を見て前言撤回を決めたのだろう。
……男の人って大変だなあ。
もう少ししたら光一君から『お義母さん』と呼ばれる。
その日は………ちっょとだけ遠くなったかも。
綾の思惑通り、涼の本気によって返り討ちにあい、結婚は遠ざかる事になる。