予定日。
この日がやってきた。
すでに綾は病院にいる。
一方、自分は綾の実家にいる。
別に一人でも生活には問題無い。
しかし、精神的に一人だと寂しい。
とりあえず綾が退院するまでお世話になる。
涼「おはようございます」
綾母「おはよう……どうしたの!?その目」
涼「ええ、ずっと寝てないんです」
信「心配でしょうがないとはいえ、少しは寝た方がよいぞ」
涼「まだ若いですから。ちょっとぐらいは平気ですよ」
綾母「でも…」
涼「…綾はこれから大変になるんです。俺が思ってるよりもずっと。この程度でギブアップしたら綾に笑われちゃいます」
綾母「でも、無理な時は気をつけてね。無茶はいけないわ」
涼「それは心得ています。それじゃ行ってきます」
業務終了の鐘が鳴る。
涼「じゃ、お先に失礼します」
澪「あ、涼君待って」
帰ろうとした時、澪主任に呼ばれる。
涼「すいません、急ぎなんで」
澪「ううん。言っておきたい事があるの」
涼「?何です」
澪「元気な子、産まれるといいわね」
澪主任は微笑む。
同じ女性として、頑張ってほしいのだろう。
涼「はいっ」
元気よく返事をし、急いで病院へと向かった。
病院に着き、受付へと向かう。
そこにはおじいさんと母さんがいる。
涼「綾は?」
綾母「いいえ、まだ」
涼「陣痛は?」
綾母「来ているには来てるけれど、まだ小さいみたいで…」
涼「ちょっと分娩室へ行ってきます」
分娩室の前に行く。
扉の上にあるランプは点灯している。
まだ続いている。
側にあった椅子に座る。
どのぐらいの時間が経っただろう。
時計をちらりと見る。
3分しか経っていない。
1秒1秒が長く感じる。
………待っていられない。
…………………怖いのだろうか?
死産する事に?
綾が死ぬ事に?
それとも、二人とも助からない事に?
…もしかすると、自分はとんでもない事をしでかしたのか?
嫌なものばかりが頭の中を巡る。
ふと、足音が聞こえた。
足音の方を向くと、おじいさんと母さん。
綾母「…まだみたいね」
涼「え、ええ…」
母さんが隣に座る。
信「…怖いかね」
涼「!」
心の中を読まれたような気がした。
信「……あの時も不安じゃったよ。幸枝が分娩室に入る時も」
綾母「…大丈夫」
手を優しく、両手で包む。
綾母「あの子は、負けないわ」
……そうだ。
綾は負けない。
赤ん坊を抱いて出てくるんだ。
涼「……母さん。すみませんけど……俺を、ひっぱたいてください。思いっきり」
気合を入れなければ。
これから父親になる自分がおどおどしてどうする。
綾母「…わかったわ」
母さんの手がゆっくりと挙がる。
手が止まったと同時に、動く。
パァンッ
静かな廊下に、響き渡る。
痛さはあまりなかった。
だが、身体の中心に、その痛みは届いた。
涼「…ありがとうございます」
どのぐらいの時間が経っただろうか。
…時計を見るのが怖い。
息をするのもつらい。
その時、終わりの音がした。
赤ん坊の泣き声。
産まれた。
バッ、と立ち上がり、分娩室の方を向く。
扉が開く。
最初に出てきたのは女性。
入院前に会った事のある、産婦人科の先生だ。
涼「先生!綾は!?」
先生「大丈夫。母子共に無事よ」
安堵の溜息をついた。
ようやく呼吸がスムーズにできた。
涼「ありがとうございます」
先生「彼女もよく頑張ったわ。立派よ」
カラカラという音と共に、移動式のベッドがこちらに近づく。
ベッドに横たわる綾の手を握る。
綾の額は、汗で髪の毛がぺったりと貼り付いている。
さっきまでの戦いの証だ。
涼「お疲れ様。綾」
綾「はい……」
そして、その横にいる赤ん坊。
涼「この子が、俺の子、なんだな…」
綾「はい……私と…涼さんの…」
先生「かなり体力を使ったからあまりしゃべっちゃダメよ」
涼「しばらくは入院、ですか」
先生「そうね。一週間は点滴かも」
涼「…あ、子供はどっちですか?」
先生「女の子よ。どっちかというと奥さんの方に似ているわね」
赤ん坊をじっと見る。
確かに似ている。
母親似だ。
涼「綾に似ているな…」
綾はこくん、とうなづいた。
ふう、と一息ついた途端、睡魔が襲ってきた
そういえば寝ていなかった。
涼「そういえば…まったく寝てなかったな」
先生「あらあら、一家全員でおやすみなんて仲良しね」
涼「綾もゆっくり休んで」
綾は再びうなづく。
カラカラ、と再びベッドが動き出す。
そして、突き当たりの角を曲がって、見えなくなる。
涼「ふう…」
椅子に再び座り、目を閉じる。
簡単に睡魔が襲ってきた。
横になる必要はなかった。
信「ふむ、じゃあわしは一旦家に戻るとするよ」
綾母「私は…ちょっと不安だから残ります」
信「不安…というと…」
ぴっ、と寝ている涼を指差す。
綾母「ええ」
信「そうじゃな。下手をするとずって寝ていそうじゃからな。目覚まし役が欲しいところじゃろう」
綾母「じゃあ、お留守番お願いします」
信「そっちの方もな」
涼の隣に座り、涼の頭を優しく持つ。
ゆっくりとこちらの方へ倒していき、そして、ちょうど自分の腿の辺りに頭を乗せる。
何かしらの枕が必要だろう。
さすがに壁が枕では健康に悪い。
涼の寝顔を見て、くすっと笑う。
かわいい寝顔。
涼の頭を優しく撫でる。
今はゆっくり寝なさい。
起きた時は、『父親』という一人の人生を背負う肩書きを持つのだから。
翌日。
涼「これが俺の娘か…」
昨日見たが、もう一度見てみる。
涼「どっちかっていうと綾似かな」
女の子だから、というのもあるがやはり綾に似ている。
成長すれば綾みたいになるのだろう。
綾「でも、涼さんに似ている所もきっとありますよ」
涼「それもそうだな。似ている部分はじっくりと探すとするか」
綾「…そういえば、名前は決まったんですか?」
涼「…え?」
綾母「えっ…て…」
信「まさか、考えておらんのか?」
涼「そういえば……忘れてた」
完全に。
綾の身体が心配だったため、名前を決める程の余裕はまったくなかった。
涼「すっ、すぐ考えてきます!」
綾「じっくり考えてきてくださいね」
大慌てで病室から出て行った。
信「まったく…考えておらんとは…」
綾がくすくすと笑う。
綾「涼さんらしいですね」
信「まあの。あいつらしいといえばあいつらしいわい」
綾母「いっその事、あなたが決めれば?」
綾「それも考えていたんですが、やっぱり涼さんが決めてほしかったんです。私だと多分『涼子』とかぐらいしか思い浮かばなくて…」
信「……安易に『綾子』とか決めたらどうするかの」
名前、か。
まったく考えてなかった。
とにかく名前を決めないと。
………………………………………………………。
出ない!
いざとなると案外出ないものだ。
うーん…俺と綾の子供…ねえ…。
ふと気づくと、公園に来ていた。
そういえば高校の時に夏期講習の帰りにここを通ったな。
…。
懐かしい。
かれこれ5年近く経っているのか。
最初の時は俺が一目惚れだったな。
あの時は確か…
……春…
!
足は病院へ向かっていた。
あれから30分。
ふと、足音が聞こえてくる。
それも結構大きい。
走っているようだ。
そして、
ここは病院ですよ!走ってはダメよ!
す、すいません!
声のやりとり。
…帰ってきたみたいだ。
病室のドアが勢いよく開いた。
涼「決まりました!」
が、病室には綾しかいない。
涼「あれ?おじいさんと母さんは?それに俺の娘は?」
綾「おじいちゃんとお母さんはもう家に帰りましたよ。子供は看護婦さんに預けてます」
涼「そっか…おじいさんと母さんに見せたかったのにな…まあいいや。名前がなんとか決まったよ」
綾「どんな名前です?」
涼「うん、名前はね…」
先程買ってきた筆ペンと紙を取り出し、書く。
書き終えた紙を綾に見せる。
春香
涼「『はるか』。春のような暖かさと香りを持った子でいてほしい…てとこ」
綾「素敵な名前ですね…。でも、どうして『春』にしたんです?」
涼「…綾、俺と初めて会った時の事、覚えてる?」
綾「確か、始業式の……あっ」
俺はこくんとうなづく。
涼「そう。綾と初めて会った時、その時の季節は『春』だったんだ。もし、あの時、君に出会っていなかったら…きっと、今のようにはなっていないと思う。あの時があるからこそ、今があって、俺と綾の子が生まれたんだと思う。あの時の出会いをずっと大切にしたい…。それでこの名前にしたんだ」
綾「…」
涼「…ダメ?」
綾「いいえ。とても素敵な名前です」
涼「良かった。変な名前だったら綾に怒られてたな。そういえば、綾だったらどんな名前にしたの?」
綾「わ、私ですか?その……涼さんの名前を取って『涼子』って考えてたんです……けど…」
たまらず、ぎゅっと綾を抱く。
涼「綾らしいな。その考え」
綾「でも、春香も素敵な名前ですよ。そっちの方がいいと思います」
涼「…じゃあ、悪いけど…娘は『春香』ってことで」
綾「はい」
涼「じゃあ、俺は家に帰るから、ちゃんと寝てるんだよ」
綾「はい、わかりました」
病室を出て、新生児室へと向かった。
新生児室には何人かの赤ん坊がいたが、ネームプレートがついてあったのですぐにわかった。
その安らかに眠っている自分の娘に、そっと囁く。
涼「春香、お父さんだぞ」