もうちょっと…だけ…

涼「こんにちは」
綾の母「あら、涼君どうしたの?」
涼「いやなに、ちょっとヒマなんで何か手伝う事ないですか?」
綾の母「手伝って欲しい…………あっ」
一つあった。
綾の母「そういえば、物置の掃除をしてほしいの」
涼「物置ですか」
綾の母「ええ、ここ最近まったく掃除をしていなくて……」
涼「ええ、いいですよ」

涼「ここ……ですか?」
綾の母「ええ。お願いしますね」
涼「どんなの入っていますか?」
綾の母「そうね……例えば……」
涼「例えば?」
涼がそう言いつつ、物置の戸を開ける。
まず目に入ったのがピアノだった。
涼「まず、ピアノですね」
綾の母「ええ」
少々ほこりがかぶっている程度だった。
涼「これ……旦那さんの?」
綾の母「ええ。あの人の大事な物でしたから」
そういえばピアノの調律師だったと聞いた事がある。
当然、自分のピアノもあるのだろう。
涼「じゃ、とりあえずピアノの埃を…」
ピアノに触れた瞬間、綾の母は何かの気配を感じた。
…気のせいだろうか。
涼「………」
涼がピアノの前に立ったままである事に気付いた。
綾の母「涼君?どうしたの?」
無言のまま、近くにあった古い椅子を引っ張り出し、椅子をピアノの前に置く。
そして、涼が椅子に座った。
綾の母「涼…君?」
いつもと違う。
ピアノなんて弾かないのに。

そっと鍵盤を押す。
調子を確かめるように。
まるでこのピアノの持ち主のようだ。
持ち主………まさか…。
演奏が始まった。
聞き覚えのある旋律。
いや、忘れる事のできない旋律。
愛した旋律だった。

演奏が終わった。
演奏開始から終了まで、全てがあの人と同じだった。
綾の母「………良明さん」
涼「………やっぱり、わかったか」
声は涼そのものだが、口調はあの人のままだった。
綾の母「わかります。愛した人の曲ですから」
涼「ふふ、そう言われると照れるな」
綾の母「………何故、なんです?」
涼「俺が、この世に出てきた理由。そして、どうして俺が今になって出てきた理由、だね?」
幸枝はこく、とうなづく。
良「………まず、この世に出てきた理由だけど……………未練、かな」
幸「未練?」
良「まあ、事故で死んだわけだしね。生まれてくる子供の成長した姿を見たかった」
幸「……でも、綾はここには…」
良「それには及ばない。この涼君の記憶を少しだけ見させてもらった」
幸「………どうでしたか?私達の子供は」
良「………僕の理想通りの子供になっている」
幸「良かった…」
良「彼、涼君も申し分のない男性だ。好感が持てる。ちょっとモテるのが不安だけどね」
幸「あ……」
以前、涼に接近した事を思い出した。
記憶を見たのなら、その事もわかったはず。
良「いや、君がちょっかいを出した事は怒らないよ。涼君自身、綾だけを愛してるから、道は外さないと思うし」
幸「はい…」
良「さて、もう一つの今になって出てきた理由は簡単だ」
幸「え?」
良「あの世では一度だけ現世にこのように乗り移れる事ができるんだ」
幸「じゃあ、涼君がピアノに触った途端、おかしくなったのは…」
良「今しかないと思ってね。触った瞬間に乗り移って、俺だと言う事を証明するためにピアノを弾いた」
幸「良明さん……」
良「ただ、この憑依は数分間しか持たない。ピアノを弾いた時間をひくともう時間はない」
幸「そんな……」
良「死んだ人間がこの世に出る事自体、すでに矛盾が生じている」
幸「良明さん…」
ぽろぽろと涙がこぼれる。
二度と会えなくなる。
良「幸枝さん」
ぐっと幸枝を抱き締めた。
良「良く、頑張ったね。俺がいなくなってから……ありがとう」
幸「いいえ、あなたのおかげです。あなたが私の中に綾を………もし、綾が生まれなかったら私はとっくにこの世にはいません」
良「……幸枝さん、あなたはもう、俺に頼る事はない。君の生き方で生きてほしい」
幸「嫌です!あなたのために私がいます!あなただけしか愛せないんです!」
良「幸枝さん…」
幸「私は……私は…………」
ぐっと強く抱き締めた。
二度と離したくない。
けど、それは叶わぬ夢。
ほんの少しの時間が経てば泡のように消えてしまう。
幸「お願いです……キス……して…」
良「……ああ…」
そっと、お互いの唇が触れた。
互いの愛を確かめるように。

良「時間だ…」
幸「……」
良「綾を、頼むよ。そして……」
幸「えっ……」
最後の部分が聞こえなくなった。
けど、口の動きでその言葉が分った。
直後、良明が憑依した涼の体が、地べたに崩れた。
幸「良明さっ…………涼君!?涼君、しっかりして!!」

涼「………………んっ………」
涼の意識が戻ったようだ。
綾の母「涼君、大丈夫!?」
涼「………あれ?さっきまでピアノの前にいたのに…」
綾の母「…記憶が、ないの?」
涼「まあ、そういう事になるんですかね?ピアノに触った途端、急に意識がテレビみたいにプツッと切れて、そんでもって今この場で寝ているって事ですね」
綾の母「その間、何も記憶に?」
涼「ええ。けど……」
綾の母「けど?」
涼「声が、したんです。気を失う直前に、『ちょっと失礼』みたいな言い方と、目が覚める時に『後は頼むよ』って。男の声でした」
綾の母「…………」
涼「……母さん?」
綾の母「もう少し、休んだ方がいいわ」
涼「でも、物置の掃除……」
綾の母「それはいつでもできるわ。無理はしないで休んで」
涼「……はい」
綾の母「………私にとって、大事な人だから」
涼「え、何て言いました?」
最後の部分が聞き取れなかった。
綾の母「ううん、こっちの話だから」
涼「はあ……じゃ、少し寝てますね」

再びピアノの前に立つ。
綾の母「良明さん。私はこのまま独身でいようかと思います。だって……あなたの方がいいなんて愚痴をこぼしそうですから」
くすっと笑った。
愛してる。
最後の言葉が浮かぶ。
綾の母「やっぱり、私は甘えん坊かもしれません。あなたの事を今でも想っていますから」
ピアノにそっと近づく。
綾の母「見守ってくださいね。良明さん」
そっとピアノに口づけを。

後書き

S −0−の影響があります。
あの作品があまりにも悲劇的で綾母に酷い目に遭わせていました。
後半、若干のフォローはしましたが俺の中で罪悪感がまだあります。
そんな罪を償うため、この作品を創ったのかもしれません。
涼×綾母というジャンルではあるのですがちょっと違う路線ですね。
キスをしてしまいましたがあくまでも良明とのキスですのでその辺りはご了承ください。
それでは次回にて。