『S』-0-

幸枝「お見合い………ですか?」
信「ああ、お前もそろそろ年相応だし、後継ぎが欲しい」
幸「はあ……」
溜息をついた。
好きでもない人と結婚。
何が楽しいのだろうか。
確かに、この藤原家は伝統として見ればかなりのものだ。
ただ、その伝統のために一人の女が犠牲になる。

そしてお見合い当日。
すでに父はお見合いの場所へ向かっていた。
そして自分はその途中。
気分は重かった。
このままお見合いを放棄する事もできる。
だが、父が怖かった。
幸「………どうすれば……………」
幸枝は深く溜息をついた。
その時、目の前にどん、と衝撃があった。
何かにぶつかった。
考え過ぎのため、前はまったく見てなかった。
顔をあげると、男性がいた。
男「大丈夫ですか?」
幸「あ……ごめんなさい、考え事をしてしまっていて…」
男「そうですか。でも、気をつけた方がいいですよ」
男はにこりと笑った。
幸「はい……」
男「それじゃ、俺は用事があるので」
幸「あ、はい………」
男が去って行った。
幸枝ははっと我に帰り、今の状況を思い出した。
お見合いの時間に遅れる。

お見合いは幸枝の予想通り、よくはなかった。
だが、お見合いの最中、考えていた事はあの男性の笑顔だった。

数日後、幸枝は少し散歩がてら街へと出かけた。
あのお見合いは当然断った。
正確には父が断った。
自分にとってお見合いは父の夫探しみたいなものだった。
そうそう父のおめがねにかかる事はないだろう。
ふと、歩いているとレコード店が目に入った。
そういえばここ最近レコードを聞いていない。
たまには聞くのもいいだろう。

店内に入ると、ピアノの曲が耳に入ってきた。
スピーカーを通じてのレコードによる音楽ではなかった。
生の演奏だ。
その音は店の奥だった。

その奥は一般客でも入れるようで、特に店員から注意される事はなかった。
奥は広く、小さなコンサートホールのようだった。
そのホールの中央にはピアノがあった。
ピアノには誰かが演奏していた。
おそらくこの音楽の主だろう。
入口からでは演奏者が見れなかった。
どんな人が演奏しているのだろう。
演奏者の見れる方へまわった。
少しずつ、演奏者の顔が見えた。
――――あの人だ。
数日前の、お見合いの時の――――
胸が高まる。
それが何なのかはわからない。
けど、この鼓動は熱く、そして苦しかった。
ふと、我に帰った。
顔が熱くなった。
このまましゃがみこんで顔を覆いたい気分だった。

演奏が終わった。
男は椅子からすっと立ち上がった。
そしてこの部屋を出ようと、こちらを向いた。
目が合った。
男「あなたは………」
幸「はい…………」
男「奇遇ですね」
男はにこりと笑った。
その笑みに対して、こちらも笑い返す。
幸「あなたは、ここの店員さん?」
男「いえ、俺はピアノの調律師なんです。今日はここのお店の店長から演奏を頼まれて」
幸「そうだったんですか………あの…失礼ですけど、お名前を…教えていただけませんか?」
男「良明。橘 良明です」
幸「橘さんは……その………」
言葉が出ない。
なぜだろう、こんなにしゃべる内容が出ないのは。
良「ピアノの演奏ですか?」
幸「えっ、あ、はい」
言葉が出ずに、良明の言葉に反応した。
良「3日後に、またここのお店に来ますよ」
幸「3日後…」

家に着いて、カレンダーを見た。
あと3日。
たまらなく待ち遠しかった。
その理由が見当たらないまま。

そして3日後。
朝起きた時点で気分が良かった。
3日前、演奏していた時間は3時頃。
すでに店に入った時点で演奏が始まっていたので、おそらく開始時間は2時半頃だろう。
その時間に間に合えばいいだろう。

そろそろ時間になる。
出かけよう。

店に着く途中、様々な事を考えた。
この服装で良かったのだろうか。
どんな顔で演奏を聞いていればいいのか。
それに、あの人はどんな曲を弾いてくれるのか。

店に着いた。
胸がどきどきする。
店の中に入るだけで緊張する。
こんな気持ちは初めてだ。
恐る恐る、店の奥へ足を進ませる。
だが、店の奥に明かりは灯されてない。
まだ来ていないようだ。

あれからどのぐらい時間が経ったのだろうか。
時計を見た。
午後3時。
3日前と同じ時間だ。
だが、あの人は来ない。
…………何かあったのだろうか。
たまらなく不安になった。
外を見ると、雨が降り出していた。

午後4時。
あの人はまだ……。

外に出た。
店の中で待っていては邪魔になるだろう。
辺りを見回す。
見当たらない。
時計は午後4時半。

一体、どうしたのだろうか。
まだ来ない。
心配だ。
どうしようもないくらいに。
今日は、来ないのだろうか。
そう思っていた時、見ていた方に、何かを感じた。
………来た。
あの人だ。
遠くからでもわかった。
あの人に間違いない。
向こうもこちらに気付いたのか、走り出してきた。
そして良明は幸枝の前へ。
幸「良明さん……」
良「すみません、だいぶ待たせてしまって。ちょっと家の用事で遅れてしまって…」
幸「良かった………」
事故に巻き込まれなくて……。
良「それじゃ、早速聴きます?」
幸「はい、是非」

ピアノのあるホールに入った。
人はまったくいない。
待っていた人もいたようだったが、帰ってしまったようだ。
ある種、自分の為のコンサートのようだった。
良明がピアノの前に座る。
そして演奏が始まった。

既存の曲ではなかった。
きっと彼のオリジナルだろう。
なつかしい、優しい、純粋、愛しい…。
そんなイメージが出てくる旋律だった。
たまらなく胸が熱くなる。
情熱。
トータルで考えると、そういう言葉がぴったりとあてはまった。
恋愛に対しての、だろうか。
それとも……。

彼の演奏が終わった。
ふと、頬に何かが流れているのを感じた。
涙だ。
………ああ、私は……………。
この人を…………好きになったんだ…。
良「ど、どうしたんですか?」
良明が慌てている。
確かにこの場では慌てない方がおかしい。
幸「あ、いえ………感動して…」
良「そ、そうですか…感動してくれたのはあなたが……あ」
幸「どうかしましたか?」
良「そういえば、名前。聞いていませんでしたね」
そういえばまだ自己紹介をしていなかった。
幸「幸枝。藤原幸枝です」

あれから、彼の小さなコンサートがある日には必ず行くようになった。
そして彼もまた毎回曲を変え、幸枝を楽しませる。
演奏が流れている間、幸枝は幸せの中にいた。

ある日
信「今日も、出かけるのか?」
幸「ええ」
信「…………俺も…いいか?」
幸「えっ?」
信「いやなに、ずいぶんと出かける時に楽しそうにしていたからな」
……どうしよう。
いずれは、良明さんの事を言う必要がある。
……その時が、今。
幸「いいですよ。ピアノコンサートですが…」
信「珍しいな、お前がピアノ鑑賞なんて」
正確には、ピアノの演奏者を鑑賞するのだが。

お店に着き、店内に入った。
レジのカウンターにいる店長と目が合った。
店長「良明さんなら、もう中で準備していますよ」
幸「わかりました」
この会話で、ここの店の常連なのが理解したと思う。
父は普段はおっとりとしているが、頭の回転が速く、推理小説をよく読んでいるためか、瞬時にその場の雰囲気を読み取るのが得意になっている。
おそらく、私が良明さんの事が好きなのもわかってしまうのだろう。

奥に進み、コンサートホールに出た。
すでに良明がピアノの前に座っていた。
目と目が合った。
お辞儀をし、良明も会釈をした。
……多分、わかってしまっただろう。
私が、この人を好きだと言う事が。

演奏は終わり、良明が立ち上がった。
幸「今日のはいつもと少し違っていましたね」
良「ええ。お連れの方がいたようですので」
幸「わかり…ました?」
良「なんとなく、ですけど」
信「いやいや、若いのになかなかの腕で」
良「ありがとうございます」
信「………」
父がじっと良明を見ている。
良「………?」
信「……ふむ」
良「俺の顔に…何かついてます?」
信「いやなに、男前だと思ってな」
良「そうですか?そんな事言われた事なかったな」
良明がにこりと笑う。
信「謙遜することはない。自信を持ってもいいと思うが」
良「はい」

そしてそのまま家路へと向かい、自宅に着く。
………おそらく父はわかっている。
あの人の事が、好きだと言う事を。
勇気を出さなくてはならない。

幸「………お父さん………あの……」
信「あの男の事だな」
幸「やっぱり……わかりました?」
信「お前があの男を見る目が違っていたからな」
幸「………はい…」
信「……まあ、俺は反対はしない」
幸「えっ……」
父の言った言葉が、最初は理解できなかった。
信「確かに、後継ぎは必要だが、俺はその前に父親だ。娘が好きな人と結婚するのなら俺は何も言わない。それに…」
幸「それに?」
信「あの男、いい目をしていた。純粋だ。濁りのない、まっすぐな目をしていた」
幸「お父さん……」
信「けど、その前に………付き合ってはないのだろう?」
幸「…………はい」
図星だった。
確かに、今の状況だとファンのような立場だ。
信「まあ、あの男…良明と言っていたな。良明もお前の事が気になっているようだな」
幸「えっ…」
信「ずいぶんと好意的だったからな」
その言葉に嬉しくなった。
あの人が、私の事を……。
信「まあ、順調に行けば、問題はなさそうだな」
幸「問題?」
信「いやなに、俺に孫ができそうだなと」
幸枝は顔を真っ赤にした。
幸「よ、良明さんとはそんな……」
うつむきながら、指と指をいじりながら言った。
信「はっはっは。まあ俺は応援しているからな」
幸「……お父さん」
信「うん?」
幸「ありがとうございます」
幸枝は深々と頭を下げた。

その後、コンサートだけでなくそれ以外の時でも会うようになった。
幸せな時間が増えた。
たまらなく嬉しかった。
けど、それと同時に不安が生まれた。
良明さんは………どう思っているのだろう。
父が好意的だったと言っても、あくまでもそれは父の推測であって、良明さんの本心ではない。
言わねばならない。
先に進むために。

ある日のコンサート終了時、食事に誘われた。
幸「晩御飯を、ですか?」
良「ええ、できれば……ですけど」
幸「そ、そんなことはありません。私から……その…」
良「…………い、行きましょうか」
幸「………はい」
お互い真っ赤になりながら、レストランへ向かった。

幸「晩御飯、おいしかったですね」
良「それは良かった。幸枝さんが気に入って俺も嬉しいですよ」
幸「………え」
良明の言った言葉が心に響いた。
幸「そ……それは……もしかして…………」
良「………………はい」
……!
衝撃が走った。
それと同時に嬉しさが込み上げてきた。
幸「良明さん……」
良「幸枝さん、俺は……あなたが…」
幸枝は次の言葉を待った。
幸せの絶頂にしてくれる言葉を―――――。

それからはとんとん拍子で進んだ。
すでに父が良明を認めたため、あっさりと承諾してもらった。

そして結婚。
幸せだった。
こんなに幸せな事があっただろうか。
好きな人と結婚できた事が、こんなにも幸せだったとは…。

数ヶ月後。
部屋を掃除している時、それは突如起きた。
吐き気。
だが、この場で出してしまっては床を汚してしまう。
吐きたいのを我慢して、洗面台に向かい、吐いた。
だが、出したものは胃液だけ。
体調はまったく悪くはない。
…………つわり…。
妊娠したのだ。
良明さんの、子供を―――

たまらなく嬉しくなった。
良明さんが帰ってくるのが待ち遠しい。

だが、いつも帰ってくる時間に、良明はこない。
……どうしたのだろうか。
いつもならただいま、と声と共に来るのに。
その時、電話が鳴った。
……虫の知らせ。
嫌な言葉が出てきた。
縁起でもない。
受話器を取った。
幸「はい、藤原です」
男「あ、大変です!良明君が!」
幸「!良明さんがどうかしたんですか!?」
男「車に轢かれたんです!」
……………。
手に持っていた、受話器が床に落ちた。
絶望によって、持つ力が消えた。
そして、目の前も―――

救急車で運ばれ、病院に着いた時にはすでに息をひきとっていた。
良明さんが、死んだ…………

葬儀の時、意識はどこかへ飛んでいた。
まるで、自分の家の出来事とは思えなかった。
ドラマのような、空想的なものを見ている気分だった。

葬儀が終わり、翌日。
雨が降っていた。
私は葬儀の行われた部屋の隅で膝を抱えて座り込んでいた。
じっ、と自分の薬指を見る。
指輪があった。
良明さんからもらった、結婚指輪。
視線を変えて、仏壇を見る。
良明さんの遺影があった。
視線を、部屋の周りに。
ここにいるはずの人。
昨日まで、ここにいた人。
昨日まで、愛していた人。
この指輪をくれた人。
私を愛してくれた人。
私の隣にいない。
この部屋にいない。
この家にもいない。
この世界にもいない。
今日はいない。
明日もいない。
明後日も、その次の日も。
ずっといない。
永遠に…
視界が、揺らぐ。
涙が溢れてくる。
どうしようもないくらい。
こらえようとしても、駄目だった。
ぼろぼろと涙が落ちる。
良明さん……。
幸「よしあ…き…さん…」
自ら発した言葉で、限界を超えてしまった。
幸「ううっ……く……あ…ああっ……あ…」
こんな悲しみなんか……こんな悲しみなんか…
こんなカナシミ―――イラナイ
幸「―――――――――っっ!」

幸「ひっく……ひっく………」
夢の中でも泣いていた。
誰もいない世界で。
絶望しか無かった。
真っ暗闇の世界。
幸「ぇぐっ……っく……」
ふと、誰かが手を差し出した。
……見た事のある手だ。
幸「……」
その手から、少しずつ視点を変えていく。
手首、腕、肘、肩、そして―――――
幸「良明さん……」
良明さんはにこっと笑った。
幸「良明さん」
涙を拭った。
こんな顔では悲しんでしまう。
そして、彼の手を握った。

幸「…………」
夢から覚めた後、じっとその手をみつめた。
幸「良明さん…」
そして、握った。

3ヶ月後。
だいぶお腹が目立ってきた。
信「なあ……幸枝」
父が声をかけた。
幸「…はい」
信「…………どうするのだ。子供は」
おそらく父は、中絶するかどうかを聞いているのだ。
幸「……………」
信「幸枝の子供を見る度に、良明の死が出てしまうのだぞ」
幸「…………」
信「それに、妊娠中に肉体的もしくは精神的にショックを受けた場合、子供に悪影響が出てくる」
つまり、体にハンデのある子供が生まれる可能性が出てくる。
信「……全ては、お前の判断だ」
幸「…………私は………この子を、産みます」
信「……」
幸「この子が………良明さんの最後の遺産なんです。私を愛してくれた証なんです」
信「そうか…………きっと良明も喜んでくれるだろう」
幸「はい……」

そして私は子供を産んだ。
女の子だった。
信「名前は、決まったのか?」
幸「はい。綾、と名づけます」
信「綾…」
幸「綾という言葉は、美しい織物を意味しているんです。外見上、この子は障害はなさそうですが、おそらく内の部分が弱いと思います。そんなハンデに負けない、内側から美しさを出してほしい、と…」
信「そうか…お前の考えた言葉だ。俺は文句は言わない」
幸「ありがとうございます」
信「ふー……俺もとうとうおじいちゃんか」
幸「そういえば、そうですね」
信「さて…と………とりあえず、綾がもう少し大きくなったら、教える事があるな」
幸「教える事?」
信「ああ。愛すべき人と出会ったのなら、肩書き、世間は気にするな、と」
幸「……」
信「藤原家という肩書きにこだわる時代は終わりだ」
幸「きっと、綾も素敵な人と出会えるはずでしょう……ねえ…」
窓に視線を向けた。
幸「良明さん」
ふっ、と笑顔と共に。

後書き

タイトルの通り、この作品は『S』の遺伝子を受け継ぐ作品です。
ただ、『S』はアナザー小説ですが、このゼロは『正伝』です。
皮肉にも綾が病弱な理由がここで解明されたわけです。
書きたい事は書いたし、ここでの解説は蛇足でしょう。
ただ、これだけは書きたい。
純愛ゆえに、この作品が生まれた、と。
それでは次回にて。